「欠陥」は徹底的に「欠陥」であるべき
友人に紹介された「天才と発達障害」を読んだ。
とても面白かったし、
最近考えていることに、ますます確信が深まった。
・・・それは
「欠陥」は徹底的に「欠陥」であるべきだ
ということなんである。
この本では、
サグラダ・ファミリアを設計した建築家・ガウディと、
「不思議の国のアリス」の作者、ルイス・キャロルの
二人を例にとって、
「発達障害」と呼ばれてしまう「認識の偏り」と、
彼らの天才的とされる能力の関連性を論じていく。
ガウディは思考も記憶も「映像」で行っていた!
という部分は、読んでいて腰を抜かしたし
自分が「どちらかというと言葉で考える」人間だ、
ということもわかった。
人間は、「自分がどのように物事をとらえているか」
というのを意外と知らないものだ。
自分にとってあまりに自然なことは、人から見て
特別であっても、なかなか気がつかないものなのだ。
* * *
この本を読んで刺激的だったのは
「発達障害」と呼ばれるような、一種の「欠陥」と
されていることが、「才能」と呼ばれるものと
深く結びついている、ということだった。
通常「人間的な欠陥」というと、
「あってはらないもの」とされて、それがいかに
自分の人生を悪くしているのか、そしていかに
克服すべきかと、悩み、考えがちだ。
でも、僕は最近ずっと
「欠陥」は徹底的に「欠陥」であるべきじゃないか?
という考えを持っている。
できないことはできないままで、
どんどんできなくていい。
その理由と仮説は以下の通りである。
↓ ↓ ↓
1.
人間は「欠陥」があると、その反作用として
別の部分が大きく発達するのではないか?
「欠陥」が深ければ深いほど、発達もより鋭くなる。
そして「才能・能力」と呼ばれるほどになる。
2.
「欠陥」がより際立ってくると、それが自身の
「キャラクター」として認知されるに至る。
「キャラクター」が強いと、人の記憶に残る。
良くも悪くも、世の中に影響を与えるのは、
「キャラの濃い」人たちではなかったか。
* * *
こういう考えを述べると、
「じゃあ欠点を克服する努力はしなくてもいいの?」
という反論があるかもしれない。
そうしたら僕は
努力して克服できるほどの浅い欠点なら意味がない。
さっさと克服したほうが早い、と言う。
・・・
何はともあれ、自分の中に「できないこと」を
見つけて凹んでしまうよりは、
「徹底的にそれができない人」を目指そう!と
考えると、妙な元気が沸いてくるではありませんか。
ヤトミックカフェ
矢透泰文が主催するコンテンツサイト。
コーヒーは出しませんが、楽しい読みものをサーブ。
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